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乙女のゲームのススメ Vol 1 時のオカリナ

今更ながら、64ゼルダの伝説 時のオカリナの 
話しです。

あたしはこのゲームにふれた時に一つの謎が
解けました。
その謎というのは、何故あたしが15年間
ゲームユーザーとして、ずっとゲームを
やり続けて来たかという理由です。

そう。それはこの時のオカリナをずっと
待っていたのです。
正確に表現するなら、モニターの中と外の
概念が希薄になるほどの圧倒的な世界観の力
寒さや暑さ、風や水の匂い、本来なら感じる
事が出来ないフェイクの世界が、何の前ぶれ
もなく、遠慮もなしに突然こころの中に
割り込んでくる。
そんな感覚をこの作品は運んで来てくれるのです

発売当時でもそのポリゴングラフィックは
けして最上級とはいえませんでしたが
おそらく時のオカリナをプレーされた人の
前で、「某ゲームのポリゴンの方が凄い」とか
「テクスチャー」がどうとかを言えば、
確実に鼻で笑われてしまうでしょう。

『ケームはとは、どうあるべきか?』の問に
ある時 宮本茂氏はこう答えました。
『ゲームは娯楽である』と
まったくもってその通りです。

TVゲームとはその性質上、知らぬうちに
テクノロジー競争やグラフィック至上主義を
生みやすく、共としてメディアの世間認知度
が広がれば『ゲーム文化』というものが、
当たり前の様に言葉として発信されるようになる

この『文化』というものが曲者で、
本来『娯楽』に興じる事はどこか世間さまに
対して肩身が狭いという人間の心情を体裁よく
おおぴっらにする為の隠れみの使われている事
が多く、いわば方便である。
もちろん。例外もあるが。

しかしやっかいなのは、その隠れみのという
性質が災いしてか、『文化』というものを
冠に上げた『娯楽』は確実に一般性を失い
非常に閉鎖されたメディアとして変貌していくのが
どうやら、世の常であるようで。

たとえば『小説』(活字)等のメディアはその昔
非常に大衆性溢れる『娯楽』でした。
しかし、一つの『文化』として冠を上げた為
昨今では限られた人々のメディアとなっている
のが現状です。
その一例として本を読む人に向かって
「頭いいんですね。そんな難しそうな本を・・」
という聞き慣れた言葉があります。
本来、『娯楽』であった読書もいまでは
知識を広めるものとしての認知度が増しています
それに伴い、『娯楽』性を感じれなくなった
新規ユーザーが減り。『活字離れ』という
言葉が使われる様になりました。
(これはあくまで現状の考察でありメディア批判を目的とした発言ではありません)

ゲームにとってのグラフィック至上主義や
テクノロジーによるデモンストレーション等は
時としてゲームの娯楽性の足枷になることも
しばしば見受けられます。

すなわち
『凄いゲーム』はその時代々々にテクノロジーの
発達と共に数多く登場しますが、
『おもしろいゲーム』は中々生まれてきません。
もちろん新しいテクノロジーが、諦めていた
アイデアの実現に手をそえることや、
テクノロジーから生まれる発想という物も
たしかに存在します。

つまりテクノロジーにかたよった至上主義は
あまり望ましくないということです。

そして『ゲームは娯楽である』と言われた
宮本氏のわたし達に対する一つの答え
それが『ゼルダの伝説 時のオカリナ』
なのです。

ゲームが好きで、ゲームで楽しみたいと
思われている方で、まだ『時のオカリナ』
をプレーされてない方は、ぜひ機会があれば
プレーをしてみてください。

今回は長くなりましたが、
最後まで読んでくれた方には心から
「ありがとうございます」です。
感想などを『げすとぶっく』に
書き込んでもらえると、非常に嬉しいです。

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