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乙女日記 Vol.1166 決して悪意はありませぬ

最近、よく娯楽というものについて思うことがあるのですが、娯楽
というものは、いつから【楽しむ】物から【楽しませてくれる】物
へと大衆定義は変化したのでしょう?

そんな娯楽って大手を振って歩いていて良いものなのでしょうか?

どこかにジメっとしたうしろめたさがあってこそ娯楽であり、やた
らめったら開けっぴろげにされて、こっちの水は甘いぞの駆け合い
合戦を、通りの向こう側からもこっち側からも節操無く飛び交って
る道の真ん中で右往左往してる。最近はそんな印象を強く感じます

で、少しでも気に食わなければ、向いの掛け声に乗っかってみる。

気が付けば、声を掛けてもらえなければ、どこへも行けなくなって
る人ばかり。

娯楽とはそんなに不自由で窮屈な物なのでしょうか?

ここで扱う娯楽物といえばゲームが主なので、ゲームを例えに出す
と、ゲームって楽しむ物だったはずなのに、いつからか楽しませて
くれもらう物として捉えてる人が多くなってきてる。

一本のソフトをどう楽しむかという、非常に人間臭い欲求そのもの
が薄まり、ただ規格の中で規格の枠をなぞってゲームにあしらわれ
てる。なんなんでしょう?

しかし、これを言ってはマズイかもしれませんが、娯楽に興じると
いうのにも一定水準の能力が必要で、それはつまり人間力とでも良
いましょうか、つまり娯楽を娯楽として取り込むには、それだけ懐
の中に余裕をもってないと無理だとも言えます。

つまり、1つのツールを目の前にして、それをどうつかって遊ぶか
を考える側の人と、最初から定められた遊び方にしか目が行かない
人。

結局、飛躍させてしまえば、作る側と消費する側の違いと言うとこ
にまで繋がるのかもしれません。

空き缶1つを使ってどれだけの遊びを作り上げるか、最初はそうい
ったシンプルな素材からスタートし、扱う物が少しづつ複雑な物に
変わっていく。それを言い代えれば、人の成長でもあるでしょう。

成長の段階で、人には優劣の差が生じて行く、それは残酷でもある
けど決して嘘ではない紛れも無い事実。娯楽に接する能力というの
も、やはりそういった人間力の差で随分代わってくるのではないか
と感じます。

少々毒気が強く聞こえてるかもしれませんが、ドライに考えてみて
も歳を重ねても尚、娯楽に生きれてる人を見ると、その人の人間力
の豊かさってのを感じませんか?

そこにある差は、想像力と活動力と好奇心。
こうなるから、こうなるんだってとこで理解したつもりで止まらな
い人。

見えてる以外の可能性を想像し、その可能性に向き会う活動力と、
強い欲求。でもそれって至ってシンプルな人間の基本的な素養だっ
たりするわけで。

つまり、上手く遊べる人は、上手く生きられてるし、上手く遊べな
い人は、上手く生きていない。不公平かもしれないけど、それが人
の中に純然とある優劣の差というものであり、そして残念なのが、
どうしても世の中には劣の方が多く、それを大衆と表現せざる負え
ないのが現実。

ただ、ここで言いたいのは、その対比のバランスが近年物凄く偏っ
てきてる気がするのです。

それは、生産者の数と消費者の数のバランスの崩壊とでも言いまし
ょうか。
膨れすぎた消費者を生産者が奪いあう中で生まれた【サービス】の
名に隠した非主義者量産思想の賜物が現代人を病ませた一因でもあ
るような気がします。

遊ぶ事に貪欲なれば、生きる事に貪欲になり、その欲求の連鎖とい
うものが、人が生きるという姿そのものなのではないかと思います
が、本を読めば行間を読めない人、映画を見ればト書きまで映像に
しなければ意味が通じない人、漫画を読めばセリフばかりを追いか
け、ゲームをすれば、何をするのかさえゲームの中から決めてもら
わなければプレイ出来ない人っというのが多過ぎて、本来娯楽に向
けられる欲求は好奇心から発せられるものだったものが、排泄欲求
に近い状態にまで変化している感じるのです。

ただそれらを危惧したところで、その対比が大きく優に傾き、その
数を逆転させたような歴史は存在しませんから、こういったものが
人が作り出した社会と文化というものなのかと納得せざる負えない
んですけどね。

しかし、もっと貪欲になろうよ。もっともっと楽しもうよ。
自分を楽しませる方法くらい、自分で見つけて、自分にしか感じれ
ない喜びってものに気付こうよ。

そんな風に思ったりする今日この頃なのです。


*原文投稿時間不明の為、00時00分として転機しました。

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