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乙女日記 Vol.1388 真相の在処に萎えないで下さいw

ネット上で、よく空気が読めない人と表現されるような行動を取る
人が居ますが、あれってやっぱ想像力が欠如してるんでしょうね。

時と場所を考えず、2ch用語やギャル文字使ったりする人がそれの
典型。
まぁ、概ねそういうのは子供だから、世間という単位の認識範囲は
狭いので、一部で流行ってる物事が、至全体の常識だと思い込んで
しまうんでしょうけど、大抵そういう場違いなことしてしまう子供
というのは、想像力が大幅に欠落してることで、知的な部分でも成
熟して無いから、文体、言葉使い以外の部分でも問題があり、自己
中心的な面も勿論、羞恥心の置き場所すら持ち合わせてない輩が大
半。

でもね、子供だから仕方ないっという見方で完了するのはどうかと
思う。

時代が違うという結論を恐れずに書くと、自分が10代の頃の周囲
の友人、そして自分自身はどうだったかってのを思い起こせば、そ
こまで想像力に貧しく、自分勝手な行動ばかりしていたかというと
、否と断言できる。

そして思うことは、その頃、つまりcocの10代と今のcocは確かに
その延長線上において繋がっていて、こうだったからこうなったと
いう論理的な接点が根っこにキチンと存在してます。

じゃ、彼らのような、携帯やPCでのネットワークという世界が身近
な物として育った彼らの今から、10年後、20年後を想像すると
恐くなります。

人はそんなに劇的に変化しない。それは皆さんも自身を振り返れば
承知のはず。

むしろ、10代の頃と今とでは、経験という差において見識が広が
り、視野は随分と広がったとは思いますが、個のベースは10代の
頃のままと言えてしまえる部分が多々あると思います。

いくつになっても自分って子供だなぁって思ったりすることあるで
しょ。

でも、それは子供なんじゃなく、10代後半という時期で個人の内
郭の殆どは完成し、その後はその完成した内郭に経験や知識が外郭
として積み重なっていくだけであって、根本は15~20歳辺りに
出来上がった個の核がそのままだったりする。

ならば、ネットワークに繋がった携帯やPCをコミニュケーションツ
ールとして正常に活用できない子らは、成人して社会に出たら一体
どんな人間として雑踏の中に踏み込んでいくんでしょうね。

話しが飛躍し過ぎるかもしれないけど、今は教師が教師としての本
来の姿を示せない時代じゃないですか。立場も生徒の方が圧倒的に
優位に立ってる。

別に教師が生徒を殴れ、威圧して従わせろっとまでは言いませんが
、学校というのは周知の事実として社会の縮図であって、そこで制
約も圧力も感じず、ゆとり教育の名のまま、ゆったりと過ごした後
、社会に出て果たしてどれだけの人数が適応できるのか?

社会の厳しさは学校の非ではないし、個と個の繋がりには必ず何か
しらの損得勘定が裏で動いてたりするのが現実。

その中で自身の立ち位置をハッキリと誇示するには、能力どうのこ
うのって以前に、あらゆる場面でどれだけ現実を想像し対応できる
かという人間力が重要だったりすると思うんです。

それに、能力主義の社会になりつつあると言っても、それは社会の
一面にしか過ぎず、誤解を恐れず言うと、能力査定だけで自身の日
常を形勢できる環境にどれだけの人が入り込めるのかっという問題
もあります。

能力主義とは、いわば一部の特化した競走社会であって、そのライ
ンに立つという段階で既にいくつものハードルを超えてきてなけれ
ばならない。

しかし、現実は、一部の技能力に長けた人と大勢の労働者という構
成で社会は動いてる。

ここで断っておきたいのは、技能者が優であり、労働者は劣という
位置関係を示しているのではありません。あくまで現実の展開構図
がそうであるという意味で書いてるだけです。

で、話し戻しますが、その一部の技能者の位置に自分を置ければ
、それこそ能力と結果で評価してもらえますが、大勢という枠の中
の労働者という位置になった場合、そこで重要なのは社会性、協調
性といった人の内面的要素がどれだけ豊かで許容が広いかで立場の
形勢や維持が成されるわけで、そこで上手く立ちまわれないと、ド
ロップアウトという結果に結びやすく、それはイコールでニートの
門を叩くという結論になるかもしれないと思うのです。

あと、社会性に疎い10代を過ごすと、自分の可能性というか、自
己を客観視する段階に到達するのが遅れる傾向があると、cocの仕
事に関する某協会の理事の方が、若手育成プログラム等の話題の中
で仰られていて、確かにそういう側面もあるかなっとcocも思いま
す。

社会を知る事は己を知る事と同義で、そこで自身の能力、ちょっと
殺伐とした表現に変えると"ポテンシャル"ですね。そういった全体
把握に遅れると、いつまでたっても"青い鳥"を追いかけてしまいが
ちな印象を持ってます。

古い言葉で"分相応"というのがありますが、現代意訳すると"適材
適所"って感じですかね。自分が何者で、何が出来て何を成すべき
かを把握することは、社会の中で生きていく上での自立の一歩なの
ではないかとcocは考えます。

夢を持つなと言ってるわけではないんです。ただ、使い古されたフ
レーズですが夢でだけでは食べて行けないじゃないですか。

それでも夢を追うなら、食べれないというリスクを背負う覚悟をし
て進むべきなんです。

でも、そのリスクを背負わず、夢だけを妄想する。そういう子供地
味た人が随分と増えたような気がするのです。

先ほど書いた一部の技能者というのは、別に恵まれた才能で苦労も
せずにそういった位置に行った人なんて滅多にいません。遊びたい
盛りの時期には色々な迷い、誘惑が
降りかかってきますし、そういう遊びに付き合うのも人付き合いと
いう観点から言うと大切だったりもしますが、そういったものを振
り払い、ただ地味に、ただ寡黙に自分の能力向上に努めるという苦
労を経て、後の結果に繋げたというのが殆どだと思います。

そうなる人とそうならない人の差は、才能とか環境なども勿論影響
するでしょうが、同年代よりも随分早くに個から見る社会、社会か
ら見る個の現実に気付いてたりするのも関係してるのは無いかと思
います。

社会を現実という尺度で比較的早く捉えることで、後の自分の世界
を明確に意識でき、課程においての社会性を放棄してまで、後の社
会での結論に賭けてみる。非常にそれはリスキーだけど、それくら
いの犠牲は払わないと、一部の側には行けないというのが現実の厳
しさなのではないかと思うわけです。

そういったリスクも侵さず、学校という空間で人的な圧力(社会の
縮図という意味での)も教師から得られず、庇護の中だけで好き勝
手なことして、我慢や忍耐などを格好悪いと勘違いしたまま、歳相
応の認識力、想像力を育てることもなく社会に出て、いつまでも自
分が特別な人間じゃないということに気付かず、自分よりも恵まれ
てない環境の他人を見つけると、自分はそうじゃない、そうならな
いという根拠の無い盲信を心の中の虚像である青い鳥の餌として、
いつまでも自己中心的な世界の中から出られない人が多くなったな
ぁっというのが確かな実感としてあります。

ネットワークに繋がった携帯やPCの中が社会であるという想像力に
至れない10代の子達がどういう大人になっていくのか、道具を使
うということは、それ即ち想像力の賜物であり、現代のツールを使
いこなせない現代っ子というのは、果たして救われるのか?

そんな危惧をしてしまうcocさんです。

そして、そんな子供達を作ってるのは、今の社会であり、大人であ
るわけで…
子供に意識の改革を促す前に、やらなければいけないことは大人の
面を被った似非大人の再教育なのではないかと思う次第です。

実際、バカな(偏差値や知能指数という意味では勿論無く)大人多い
でしょ。想像力の無い大人が想像力の無い子供を量産してるんです
から、目線を下に向けても意味はないと思うわけです。

唯一子供に思うこと、それは何故大人に反抗しない、社会に反抗し
ないのだ。
何も、暴力に訴えろ、好き勝手して社会に唾を吐けという意味では
ありません。

未来に夢や希望が消えかかり、自分たちが将来生きていく世界に不
満があるなら、それを主張しないとね。

時代を、社会を変えるのは何時の時代も大人でなく、年寄りでもな
く若者なんですから。正統な怒りというのをもっとぶつけても良い
と思う。

ま、事無かれ主義、右習え主義、没個性時代に慣らされきった子ら
ばかりですから、それは無理ってもんでしょうけどね。

っと、なんか右のような思想家の啓発文みたくなってしまい、少々
焦ってますが…、とにかくcocさんが言いたいのは、鏡を見る習慣
をもっと身に付けましょうってことです。

人にどう見られてるのかを強く意識することで、より深く自分を知
る事になり、それは結果的に他人を知ることにもなりますしね。

ってわけで、巡回先の某所BBSでの余りに酷い自分勝手の横行に端
を発したcocの宛名の無い御説教なのでしたという真相w

それではスッキリとさせてもらったことですし、今回はこれにて。

では、また次回の更新まで御機嫌よう。


*原文投稿時間不明の為、00時00分として転機しました。

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