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乙女日記 Vol.1908 戻ってきましたお

ども。ちょいとばかり失踪していたcocさんです。嘘です。

土日は仕事でクタクタになって、日曜の夜はF1を見ながら寝落ちして、月曜日は実家に帰って一日遅れの父の日ということで、感謝デー実施しておりました。

そして、まずは最初に誤ります。いくら手抜きとはいえ、20日付けのテキストで30個以上の動画を埋め込むという豪快プレーで逃走プレーをしてすいませんでした。

"ブラウザ固まりかけたぞ、ゴルァァァ!"っとお怒りのメールを某氏から頂きました。とりあえず「死ねよ!ハゲ!」っと返信はしておきましたけど、自分で確認したら本当にブラウザが一瞬固まりました(てへw

つーことで、20日付けのテキストは編集しなおしておきました。

さて、今夜の本題はちと真面目なお話を。

先日、衆議院で可決された新たな臓器移植法案。参議院でどうなるのかっという話題と共に、臓器提供者、つまり脳死判定を受けた方への"死"の定義問題などが活発に議論されてます。

しかし、cocはそもそも脳死判定云々、死の定義云々以前に臓器移植という手段そのものがどうなんだろう?っと考える派です。

臓器移植という方法論を実施してしまうから、脳死の問題、死の定義の問題という非常に難解な次元に話を進めなきゃいけなくなるわけです。

確かに臓器を移植すれば生きれる人がいる。その人の気持ちを考えれば臓器移植を否定することは、その人の生きたいという気持ちまで否定することになるのかって言われるケースもありますが、言葉を選ばずに言うなら"そうです"とcocは言うでしょう。

他人の臓器を搾取してまで生きるということはどうなんだろう?

死というのは生を受けた者全てに望む、望まぬを関係なく、いずれは必ず等しく一律に訪れる現象ですよね。

臓器不全をそのタイミングとせずに回避しよう、臓器を入れ替えて治そうというのは医療の発展としては間違いのように思うのです。

極論を言わせて貰えば、脳が死んでると認定されれば、それが人の死であるということならば、脳さえ生きてれば死んでいないってことでしょ。じゃ、臓器いらないじゃん。脳だけで生きようよ。

脳が生きてるから、臓器が必要という考え方は何でもかんでも搾取し、消費して生きてる人間のエゴを象徴してる理論だと思うのはcocだけでしょうか?

自分が、もしくは家族が臓器不全に陥ったらそんなこといえるのか?っという反論も受けるでしょうけど、それに関しても"そうです"とcocは言うでしょう。

こういう考えというのは、少数派なのかもしれませんが、脳死に対しての死の定義とかでなく、"死"という"現象"の"発生"そのものに対しての考え方の違いから生じる異質論なのかもしれません。

決して逃れることが出来ない現象ならば、このタイミングで訪れたことに抗っても、必ずまたその現象は発生するわけですから、それがその生の寿命と考え受け入れる。それが最も自然な生き方ではないかなって思うんです。

つまり、脳死を死とするのかしないのかという"死"に対して議論するアプローチの前に"生き方"というのをもっと考えるべきではないかなっと。

投薬や、病巣摘出や触診治療の為の外科手術なども結局は"死"に抗ってるわけだから、それら医療行為を全て否定する気か?っと誤解されては困りますので、そこに関しては"違います"とここで明言しておきます。

要は他人の臓器を搾取してまで生きる、その生き方について首を傾げる派という立ち位置の人なんです。

まぁ、非常にデリケートな問題ですし、いろんな考え、立ち位置の人が居るでしょうから、この主張が何よりも正しい!というつもりで書いてるわけではありません。脳死が人の死か否かという議論と合せて、臓器移植という方法論の是非についても色んな人が色々な考えで議論することがこういう問題にはとても大切だと思うんです。

最後に、今回書いたcocの考えを形成する上での根底には"阪神淡路大震災"という天災が大きく影響しています。その天災の当事者であったcocさんにとって、あの日に"死"というものへの考えが大きく変わりました。どこを向いても"死"が転がってる現場で、それは悲しさとか悲惨とかいう言葉が生み出すほどの壮絶感は無く、"死"という現象が発生した結果がただ淡々と散乱していた。その中に友人も居た。死んだ人と生き残った人の差なんてものは明確になく、ただそこに死が起きて、死が起きなかった者が居た。理由なんてないわけです。死んだ人が死ななければいけない理由なんてなかった。逆を言えば生き残った人にも生き残った理由なんてない。

ただ発生した。死が。それだけ。その無秩序で無造作すぎるあの日から、死に対して特別な恐ろしさとか、拒絶感とかはなくなったんです。言い方を代えれば、生に対しての執着心というのが薄れたとも言うべきでしょうか。

別に死にたいとか生きたくないとかってほど、絶望も悲観もしていませんが、発生する現象の一つとして冷静に死というものを認めることが出来てるのかもしれません。(しかし、三沢さんの死については存在の喪失感という意味で未だにショックは大きいままですが…)

故に、死なのか死ではないのかという議論の余地がまだ残ってる脳死認定患者から臓器を搾取してまで生きなくても、発生した死への道と向き合って生きる方が人の生き方として自然に思えるんです。

でも、やっぱり難しい問題ですよね。だからこそ一杯議論してほしい。そして現代の定義でどの選択肢がベストなのかという結論を急がずに慎重にやっていってほしいです。

そんなわけで、4日ぶりの更新でいきなり重いテーマで復活してみるという、読んで下さってる方に対して随分な嫌がらせとなってしまいましたけど、国会で人の死の定義について決めようというのですから、日本国の1国民として言うべきことは言っておこうという義務を果たすべく書いた次第です。

つーことで、明日も生きてれば更新しますですw(茶化してるわけじゃなく、結局生死なんてそんなもんなんですっというスタンス)

では、今回はこれにて。


*原文投稿時間不明の為、00時00分として転機しました。

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